「ホスピタリティ」と「おもてなし」
Japan hospitalityとオリンピック・ホスピタリティの形成へむけて







亡き愛犬ルビと

ブエノスアイレスにおけるIOCのオリンピック誘致の日本チームによるプレゼンテーションで「おもてなし」と「ホスピタリティ」が主要なキイワードになっていました。滝川クリステルさんのジェスチャーをまじえた「お・も・て・な・し」は大きなインパクトをあたえ、猪瀬知事は、[hospitality]を何度か連呼された。それは、Discover Tomorrowの実際のソフト技術として、これから意味をもちはじめ、オリンピック開催時の日本人自体の世界への表現となっていくでしょう。 ようやく、日本が、サービスの未熟な段階から脱皮して、成熟した時代づくりのなかで、本来の文化をとりもどし、その伝統を先端性でいかす新たな歴史の次元へきたということで、よろこばしいかぎりなのですが、はて、しかし、いったい「おもてなし」と「ホスピタリティ」とは、どういうことをいうのでしょう、それはほとんど了解されているようにみえません。一方はあまりに自然態的なものであり、他方は一般にはあまりになじみないものです。その「重なり」と「違い」を、これからの七年間の指針の規準としてしめしておきます。
「おもてなし」と「サービス」と「ホスピタリティ」は、実は、原理と技術とがまったくちがいます。ここをクリアにしておかないと、育成や開発等で多々あやまちがおきかねません。



「おもてなし」:日本人に身体構造化されたハビトゥスhabitus

「おもてなし」は、日本の「家族」において、ほとんどすべてのひとたちが、日常的になしえていることである。「家」にまれな客であれ、知り合いであれ、ひと=他者をまねいたとき、日本人は「かならず」もてなしをしている。その常態化されたある慣習行為・慣習感覚を、それは「日本人の精神生活」の基盤である、と「精神」主義化したとたん、見誤ってしまう。日本人にとって「こころ」のありかたは、「精神」ではない、つまり頭の中にあるものではなく、身体に自然化された「こころの技術」である。
「よくいらっしゃいました。」と、客人を迎え、お茶をだしたり、ごちそうしたり、ときにお酒を酌み交わして、歓談し、「またおいでください。」とおくりだす。それにあたって、家をきれいに掃除したり、花などをかざったり、普段食べないものを買い入れ、料理したり、その器を代えたり、特別なお酒やお茶をだしたりなど、相手が気持ちよくいられるように、さまざまなことを配置する。「しつらえ」を同時にしている。場所の雰囲気をととのえ、「貴種」として相手をむかえいれているのだが、非日常をつくっているのではない、普段の日常そのもののなかに、「良き」演出をなしているのだ。(ここを、ハレとケであるとするとあやまつ、あくまで日常である。日常であるが故に、よそよそしさがなく、気張りもなく、温かな雰囲気がつくられる。)
これが「サービス」とちがうのは、「サービス」というのは相手にお金を支払わせるための奉仕・尽くしであって、「おもてなし」は見返りをもとめない、しかし、よくなされると、結果よいみかえりはうまれる。間柄がさらによくなったり、仕事が派生したり、付き合いが深まりひろがったり、などさまざまな局面でなにかよきことがうまれる。
「おもてなし」は、どこの家族でもなしうると、単位が「家」であることと定義したが、会社や役所で「おもてなし」はない。あっても、それは別行事としてである。つまり、ワーキングの場にもてなしは存在しない。もうすこし論理的に言おう、商品交換世界の人間関係において、「おもてなし」はないのだ。あくまで、プライベートな空間においてなされるものである。そこにマネーの交換は無い。
すると、ホテルやレストランでの「もてなし」があるではないか、そういう局面があるだろうと異見がでようが、それは「サービス」であって、客がお金をはらっているゆえになされている、という閾をでない。この対価関係をこえてしまう閾に、「もてなし」が、時に作用する事があるが、しかし、それも「お金をはらってくれた客」であることへの、ホテル/レストラン側のひとつの顧客戦略である。ところが、客でもないのに、丁重な親切な対応をうけるときがある、そのとき、そこは「ホスピタリティがある」ということであって、「おもてなし」しているわけではない。(たとえば箱根のせまい道路でUターンしようとあるホテルの駐車場の中にはいってしまった、すると係の人が怒るのではなく、丁重に車の誘導をして、お気をつけてと笑顔で送ってくれた、これはもてなしたのではなく、客でもない人にホスピタリティしたのである。わたしはこのホテルを今度は泊まってみようとおもった。)
くりかえそう、「おもてなし」とはプライベートな「我が家」においてその日常の場に客人をむかえいれる「心の技術」である、ということだ。そして、そこには場を「しつらえる」ということが、物の配置や雰囲気づくりとして、かならず作用している。この「場所しつらえ」なくして、「おもてなし」は、なされえない。人対応だけのことではないのだ。そうした、日常生活において身体化された心技術が、他の場面に置いても、他者への対応の仕方の「心づかい」「気配り」「おもいやり」、そして「親切」という、あたたかいものとして出現するのである。つまり、日本人は、「おもてなし」の「心技術」を、ある意味自然態化しているが、そこだけをとりだして、個人主体化し一般化することは、おもてなしの生活文化基盤をなおざりにしていることになる。あるいは、貨幣経済関係の「儲け」に利用しているだけになる。
ここから、いえることは、「おもてなし」とは、社会構造的に商品経済関係・貨幣経済関係、社会規範・規則関係、制度サービス関係という次元には無い、日本文化の長い伝統と生活慣習のなかで歴史的につちかわれている身体の「心技術」であるということだ。身体と心とが分離されていない、非分離にある文化の技術である。頭で考えられて、その理においてなされることではない、生活の中で慣習化されている。
この基盤文化が、さまざまな場で崩れているが、その典型が「セルフ・サービス」である、この身体技術は「おもてなし」の心技術を貧困化させている。経済効率化をねらってのコスト削減によってなされている「セルフ・サービス」の悪しき典型例が、たとえばセルフ・サービスのガソリン給油所である。社員がそこにいるのに(給与を支払われているのに)、なんの助けもしない、それどころか、車がでていくときの「安全」誘導もしないで、ぼやーっとみているだけの光景である。「セルフ・サービス」だから、してはいけないかのように配置されている。他の仕事でいそがしいのならいい、ぶらぶらして車をながめているだけなのだ。これは、「もてなし」の心技術を、喪失したのではない、個々人にはあるのだが、「働かせない」ようにしている場をつくってしまっている。見失ってしまっているのだ。これが、つみかさなっていけば、個々人へ「喪失」が常態化する。かつては、義務的にサービスで、車の安全誘導していただけであるから、そうなる。お客のためだと擬装して、自分たちのことしかしていなかったのだ。
「サービス」というのは、こうした転倒を多々うみだす未熟な技術であるのだが、心の技術を極めた日本のかつての「おもてなし」が、セルフ・サービスなど,サービス世界によって心技術が貧困化、欠落してしまったり、社会変化によって対応しきれなくなってしまった。大事な自らの文化の技術を自らで失ってしまう産業経済環境におかれてしまっている。この「おもてなし」心技術を、おぎなったり、対応したりするのにホスピタリティの技術を知る必要性がでてきている。
それを、東京オリンピックで、世界の人々を「おもてなし」し「ホスピタリティ」しようと、ジャパン・チームは世界へ宣したのだ。それを、世界も、日本の国民も、どこかで前向きに感知した。
それは、つまり、日本あるいは東京が、「家」となって、その日常空間に客人を迎え入れるというように、拡張されている。出来事=イベントは、非日常の祭典であるが、競技以外の、さまざまな日常の場所で、客人をむかえいれよう、ということだ。これは、何を意味しているかと言うと、パブリックな場所において、異文化(異なる生活慣習)の客人をむかえいれようとすることを意味する、このパブリックな場所は、実は社会空間ではない、ひとりひとりの違いがいかされている、多様な場所になるという事を意味する。社会空間であるなら、このオリンピック期間、日本人はある画一的な規範義務を遂行せよ、となってしまう。そうではない、ひとりひとりが、あたたかく客人をむかえ、気持ちよくすごしてもらいましょう、それは各人へ、そのプライベートさにゆだねられているということだ。ここに、日本のよき文化である心技術の「もてなし」を日本人がとりもどし、それをおぎないいかしめる「ホスピタリティ」技術をはたらかし、明日を開き築きあげようということだ。反対の言い方をしよう、客人が乱暴する事無く、危害を与える事無く、無事安全に安心してお帰りいただこう、ということがからんでいる。異文化間の交通・交流が衝突しないように、和むようにしていくことなのだが、ここに、さまざまな規定関係性がはいりこんで、「安全」のための監視・警備、規制ということが、からみこんでくる。その規範・規則が、おもてなし、ホスピタリティをさせない様にと、転倒して来る。



サービスとホスピタリティ
サービス社会


日本は、サービス社会になっている、サービス産業が主要な位置を占めるだけではない、役所から学校、病院、輸送、など、すべてサービス環境にとりかこまれた「社会サービス世界」となっている。「サービスが悪い」と怒る客を、ときおりみかける。サービスするのは当たり前だとなっているからだ。「俺は金を払ったんだ、なんだそのサービスは!」と、「サービスの欠如」を怒っているのだ。
サービスとは、「いつでもどこでも誰にでも」同じ事を「他者のため」に自己犠牲して奉仕する「他律技術」をいう。したがって、こまかいマニュアルが要され、決められた規範・規則の正確な遂行を求められる。サービスの本質は「欠如の論理」からなる、「〜が足らない」からそこを埋め合わせていこうとするのがサービスの本質である。それゆえ、つねに「欠如」をさがしあてて、不備が無い様にしていく、「お客様のため」と名目をたてているが、実際は自分の側に不備がないように、責任をとらされないように、自分へ損害が無い様に、組み立てられたものである。なしたからには、かならず見返りが求められる。サービスは、サービスされた側がお金を払わされている関係にある。一方無償サービスというのは、自己犠牲の技術である。商品関係を円滑に回転させようとして、自分を押し殺して奉仕しようという宗教的なサービス=奉仕が、経済世界へと世俗化された他律技術である。自律技術は、禁止さえされる、勝手なことをしては困る、なにが起こるかわからないからだ、と。
こうした堅苦しさのなかにおしこまれていくサービス傾向の必然にたいして、サービスを豊かによりよくするために、「おもてなし」を、また「ホスピタリティ」を付加しようと一般にサービス業界ではいわれているが、それは貨幣関係に直接性をもたない次元をおりこんで、サービスの堅苦しさ・つめたさ・よそよそしさを緩和させようとしている。よい傾向だが、サービスは「おもてなし」とも「ホスピタリティ」とも、その存立原理がまったく異なるのだ。ここでは、サービスの本性と限界とを述べる場ではないので略して、ひとつだけ結論的にいっておくと、サービスは「こうしなさい」と決められたサービス行動するだけで客=相手の顔をみていない、とだけ指摘しておこう。それは、日々目の前でくりひろげられているから、いつでも体験してふれることができるはずだ。
オリンピック誘致委員会は、東京はサービスします、とは言わなかった、「おもてなし」し「ホスピタリティ」する、といったのだ。きわめて、妥当である。それでは、その次元とは?



ホスピタリティ

「ホスピタリティ」とは、「いまこのとき、この場で、この人(だけ)に」と簡明に言う事ができる。ホスピタリティは、見返りをもとめない、ひとによってちがうことがなされる、その人だけにいまの瞬間になされる、置かれた場所の情況に応じてなされる。ホテルをいろいろ検証した結果、わたしは「ホスピタリティとは、述語的場所における、非自己の自己技術である」と定義した。それが、なされはじめるには、自己としては判断する事が要される、しかし主体的な自己行動ではない、客の、対者の情況を読み取って、しかるべきことをなす述語関係的な自己技術である。しかし、客に迎合することではない、客のわがままな要求をもいっさいノーと言わずに、しかし客のいうがままになることなく、適切な対応をしていく事である。こうしなさいときめられたことをなすのではない。そのためには、すべきことである社会規範・規則を外在化せずに、自分のなかに内在化し自己コントロールし、他者のもとめに応じて臨機応変に自己技術を述語的にはたらかすことである。非常に高度な、戦略的技術である。サービスは、不良な課題を「できません」として排除するが、ホスピタリティは不良設定事態へ対処していく事である。「ハッと」することがなされて、「ホッと」することがもたらされることだ。ホスピタリティには、欠如が無い、それゆえ不備というものもなければ、なされずとも不満をまねくこともない。そして、客/対者の「顔を聞く」ことである、顔色をみるのではない、語られえていない声をききとることである、それは客も気づいていないことの閾にある。だから「ハッと」する。そして、ホスピタリティがなされるとこころがなごむ。
ホスピタリティとは、そこに「おもてなし」を一要素としてくみこんでいる、心配りとか気配りとか思いやり等は、その諸要素である。ホスピタリティとは、それがなされる場所の文脈無視ではなされない、かならずある特定の場所のシチュエーションにおかれてなされる。サービス以上に、コンテクストをつかむ意図的戦略的な行為であるが、「秘すれば花なり」というように、そこを相手に読みとられてはならない。ホスピタリティとは、慣習的になされることではない、ある蓄積閾に達すると、また別の様態がもとめられていく、つねに新しいものになっていく。かぎりない、ホスピタリティの実例をあげることができる。
オリンピックでは、自分たちも知らない、異文化の多様な人たちがやってくる、そこへ即対応していけるには、おもてなしの心技術をもって、ホスピタリティをなしていくことが要される。



おもてなしとホスピタリティ

おもてなしは、家でなされる心技術であるが、ホスピタリティは、ある特定の場所で個人がなす自己技術である。おもてなしは慣習的行為であるが、ホスピタリティは戦略的行為である。その根柢における共通事項は、敵と対立せずに、なごやかにおくりだす、ということにある。「おもてなし」は親しい人の間で現象的になされるが、実は、敵対しない様になされた配慮にあるのだ。おもてなしは、ホスピタリティの一要素であって、包含関係は、ホスピタリティのなかにおもてなしがある。たとえば、病院で、患者をおもてなしなどはしていないであろう、しかしホスピタリティは求められる、傷つき病にあるひとに、おきまりの冷たいサービスでは患者もつらい、ホスピタリティのあたたかみはあったほうがよい、というように。おもてなしとは、精神性ではない、身体化されている心技術である。おもてなしは、長い歴史のなかで、作法とされたり、身の振る舞い方などに儀礼化されてもいる。お辞儀の仕方、お茶など物のだしかた・渡し方、歩き方、襖の開け方など、多様な身体技術が繊細にあるが、そうした形式をなしうる、それを包含している「心技術」なのだ。かたちを通じてこころをとりもどす、改めてまなびとるということにもなりうるが、自然態となっているのが文化の意味と力である。
ホスピタリティとは、敵が、迎えいれる主人のもっていない「不在」をもちこむ、つまり主人の立場がなくなる、主人は殺されるのだが、それを殺しませんと宣させて、迎え受け入れることである。つまり、敵の意志をまげることであるが、強いるのではない、敵自身がそうするようにしむけることである。それゆえ、入ってきた敵を歓待し、なごませ、きもちよく送り出すのだ。
実際にオリンピックは、多様な異文化人間が訪れてくる、そこへの監視・警備が、「安全」と「防御」のために不可避に同時になされるが、ホスピタリティ技術は、それ以上に、平穏な環境をキープする技術として重要な役割機能をはたす。それは、それぞれのプライベートさが尊重され活かされる「パブリックな環境」において作用していくものである。「おもてなし」の普通さと「ホスピタリティ」のプロフェッショナルさとが、同時的に、多様に働いていく事だ。
このおもてなしとホスピタリティとが相互作用しうる「ソフト技術」は、体験だけからでは働かない。


ホスピタリティは外来語であるが、その技術は、日本において「もてなし」を含み、多様にある、しかも根本原理は、非分離・述語制・場所、そして非自己という日本の文化技術・言語技術(日本語に主語は無い)の原理において本質定義されうるのである。和語一般としてないのだが、それぞれの方言において残存しているものが多々あるはずである。たとえば久留米では「ほとめき」として、場所人たちが意識にのせている。
ホスピタリティは、もてなし技術を領有している普通の人にも行為しうるが、プロフェッショナルに育成していく次元にあるものだ。
「もてなし」「もてなす」は、「の給ふ御もてなし、こわづかひさへ、目もあやなるに」(源氏物語、若紫)のように、教養・性格などによって醸成された態度、身のこなし、ものごしで、実は、人に対して自分の望む結果がえられるようにしむける事、とりはからいであり、その際の物の使いぶり、取り扱い方、それが「ごちそう」となって、手厚く歓待する、たいせつに扱う、大事にする、となっている。「持成」と記されるが、「持って」「成される」という自律と他律の混成語である。「みせかけ」の態度をとる、という意味にもなるし、あしらうという意味にも転じられる。これが、わたしのいう「家」の作法として身体化し日常自然態化していったのは、武士の作法がつくりあげていったものを通じてである。つまり、わたしたちは、「いま」、「もてなす」ことの日本文化のよさとして、それを文化の蓄積・変容をふまえて、固有につくりなおしていけばよい。それには、ホスピタリティとのソフト技術関係をたくみにねりあげていくことだ。
ホスピタリティを真に世界へむけて創り出しうるのは、日本の場所ごとの「もてなし」をふくんだ多様な文化の力によってである。
そして、ホスピタリティは、新たな経済生産様式を資本として創成していく原理・技術となりえ、かつ行政の冷たいサービスを、住民へのあたたかいホスピタリティへと高度化していくものになりうるし、政治統治の技術、外交の技術ともなりうる。
つまり、ホスピタリティの原理と技術は、現在の諸限界を新たな次元へとひらいていける力をもちえているのである。


オリンピックへむけて

オリンピックまでの七年間、日本のよさをとりもどそう、そして世界最高峰の祭典にしようという、そのためのソフト技術として<ジャパン・ホスピタリティ>を形成していく事は、実に有意義なことである。それは、個々人が自らの日本文化を再認識し、暮らしによみがえらせることにとどまらない、すでに行き詰まっている商品・サービス経済の限界をこえて、ホスピタリティ・資本の新たな経済生産様式をうみだしていくことになりうる。資本蓄積の第四様式を創出する事である(第一様式:生産財、第二様式:公共財、第三様式:科学技術・サービス)。それは、情報・環境・資本・場所・ホスピタリティによる生産・蓄積である。第四蓄積様式において、第一、第二、第三様式を新たな次元で領導していくことだ。その基本技術原理が、ホスピタリティだ。ホスピタリティ開発を、新たな文化資本形成の次元からなしていくことだ。資本は、象徴資本・文化資本・社会資本・環境資本・自然資本、そして場所資本の総体から構成される。
そのために、日本の繊細な心の技術を取り戻すために、一方で室礼、文化から体感しつつ同時にホスピタリティの哲学を学ぶ。これらを新日屋とJHAで協働して、新たなる「ジャパン・ホスピタリティ」を今つくっていく。
ジャパン・ホスピタリティの文化基盤は、ふたつの基核としてある、京都の「雅ホスピタリティ」と東国武士の「もののふホスピタリティ」である。このふたつは、千年の年月をかけてみがかれ、さまざまな局面で、日本人の生活文化のなかでいかされてきたが、同時に見失われつつもある。その共存を、ホスピタリティ哲学とともにホスピタリティ技術として再発見していかねばならない。
日本橋に拠点をおいて、東京・都市の江戸文化の土台となっている「ホスピタリティ」、そしてそれぞれの場所における場所文化ごとの「ホスピタリティ」、そして情報・イメージにたいする「ホスピタリティ」を、ジャパン・ホスピタリティとして、ソフト技術開発していく。
JHAは、主に@ホスピタリティ技術開発、Aホスピタリティ人材形成、Bホスピタリティ・インキュベーション・プロジェクト、をもってホスピタリティ力能を教育開発としてすすめていく。そして、武士文化、キモノ文化、芸能文化を発掘しなおしながら、文化基盤をあきらかにしていき、いくつかの、資本経済・場所環境経済を開発するホスピタリティ・インキュベーション・ビジネスもたちあげていく。こうした総体としてのジャパン・ホスピタリティを開発構築していく。



それぞれ開発コアにして、研究者、クリエーター、企業、役所の協働体制を、人々へむけて構成する。
「オリンピック・ホスピタリティ」への提言として、それを機にしながら、新しい歴史をつくっていく、それが「ジャパン・ホスピタリティ」を自覚的に創り出し、活用していく事においてなされる。
たくさんのまがいものが出現してくるであろうが、JHAは、日本文化・歴史の深部へもぐりこみ、文化資本の領導による健全な成熟したビジネス経済、場所政治統治にも寄与しうる、メソッド・技術・カリキュラム、プログラムを、厳正に創出していく。超領域専門の次元から、高度な理論・哲学と実際行為・技術とを創出していく。